歴史


推古天皇14年(606年)聖徳太子は豊浦宮(現在の奈良橘寺)において推古天皇の御前にて勝鬘経(しょうまんぎょう)のお話を三日をかけてされました。その夜、蓮華の花がその地に降りしいたと伝えられます。また、同じ年に太子は法華経のお話を岡本宮でされ、推古天皇は大変お慶びになり、太子に播磨国揖保の郡に於いて水田百町を寄進されました。太子はこの地を「鵤荘」(いかるがのしょう)と名付けられ、一つの伽藍を建てられました。これが播州斑鳩寺の始まりです。往古には、七道伽藍、数十の坊院が甍(いらか)をならべ真に壮麗を極めていましたが、天文10年(1541年)尼子氏の播磨侵入後の混乱の中、惜しくも堂塔尽く焼失をしてしまいます。その後楽々山円勝寺(現たつの市)の昌仙法師により龍野城主赤松下野守政秀らの寄進を得て漸次再建されました。
斑鳩寺は太子創建後一千余年間は奈良法隆寺の別院でしたが、再建後、天台宗となりました。